※この文章は下書きです。
「文豪ストレイドッグス」がなかなか面白い。
まあしかしネットにある通りの批判というか、そういうものは文化的に受け入れるべきだ。
僕自身、読んで浅いなと思う部分があったし、なんかどっかで見た能力もあった。
太宰の能力はイマジンブレイカーだし、国木田の能力はクルルに似てるし、芥川の能力はBASARAの信長だし。
変身能力や空間投影とかは昔からよくあるし。
モンゴメリの能力は固有結界だし。
ていうか、Fateだと思った。
実在の英雄を特殊能力付きで現実世界に召喚する設定は全く同じだ。
前々から思っていたが、Fateはものすごく日本的な作品である。
そもそも狭義でのクロスオーバー自体がアジア的発想なのだ。
クロスオーバー作品はwikiにある通り、アメリカンによくある。
しかしそれはゲスト出演の域を超えない。
クロスオーバーすること自体、つまり初めから複数の作品の登場人物が一堂に会し、物語が進むことは実は少ないのだ。
『アベンジャーズ』などはだいぶ前からあるが、それも出版社の大人の事情の枠を出ない。
オールスターズという言い方もできるが、○○オールスターズであり、○○の枠はなかなか超えないということだ。
大人の事情なのだから当たり前である。
なぜ日本的、果てはアジア的なのか、の前に影響関係をさらっていこう。
wiki参照だが、
Fate(ゼロ年代)
→魔界転生(戦後)
→里見八犬伝(江戸)
→封神演義(明)
→・・・
の流れは確実である。
これらに共通していることがある。
全て史実を元にしたファンタジーなのだ。
そして全て時代考証が滅茶苦茶なことが批判されている。
さらに異文化の人物が集うのも共通している。
表にするのが面倒だから箇条書きにする。
・Fate…現代日本+アーサー王物語・時代考証は後で書く・宝具・イギリスVSメソポタミア
・魔界転生…17世紀前半日本の実在する英雄・忍ばない忍法・史実に合わせる気がない・仏教徒宝蔵院を転生させたキリシタン天草四郎
・八犬伝…15世紀半ば日本・玉梓の怨霊・里見義実の話が伝説・ごく普通に出家した金碗大輔
・封神演義…殷周易姓革命・仙人とか出まくり・殷時代に仏教はない・道教+仏教+民間信仰+インド
そもそも「封神演義は失敗作」という人のために『西遊記』を例に挙げると、
太宗も出てくる唐・どう見てもファンタジー・道教+仏教+民間信仰+インド
と、時代考証があまり突っ込まれないだけで、クロスオーバーしていることは同じ。
封神演義がそもそもクロスオーバーに含まれる原因がここにある。
実在の人物(紂王・武王)+道教(老子・元始天尊)+仏教(普賢真人・文殊天尊)+民間信仰(哪吒・楊戩)+インド(孔宣とか西方に連れていかれる奴ら)
こういった物語がアジア以外に生まれなかった最大の要因は何か。
答えは簡単、宗教である。
三大宗教のうち、多神教は仏教だけ。
そして同一民族による複数信仰もアジアだけ。
宗教でいえば、まず一神教では神や聖人を弄るなど許されない。
ヨーロッパ圏では英雄や諸王は聖人に列挙される習慣があるため、下手な英雄は弄れない。
ヨーロッパにもギリシャ神話や北欧神話など、多神教はある。
しかしそれらの歴史は常にキリスト教との戦いの中にあった。
ローマ神話大好きな時代のネロ皇帝みたいに、キリスト教は迫害される。
逆にキリスト教が優勢になるや、諸神話の神々は悪魔認定されてきた。
たとえばドイツにおけるフレイヤの扱いや、アスタロス扱いされるイシュタルやアフロディーテなどがあげられる。
今ですら、キリスト教は弄ることを許さない、BASARAではザビー教なのだ。
対して日本・中国はどうか。
日本は中国由来の仏教と日本古来の神道が同居し、キリスト教は危険視されて迫害されても、儒教は受け入れるという心の広さがある。
中国は仏教と道教が同居している。
多神教と一神教は長くなるので、『風土』を読みたもれ。
民族的に言えば要するに、自然を含む全てを支配するヨーロッパと、過酷な自然と渇水のせいで好戦的な性格になった砂漠イスラムと、過酷な自然と言っても水害や台風と同居し受け入れるアジアとの違いである。
そもそも受け入れる性格が違う、アジアが一番心が広い。
ということで、アジアには多神教と混在を許し、英雄を弄ることを許す文化があった。
英雄譚目茶目茶にするんやったら三国志演義とか、帝すら創作して許される源氏物語とか。
そういった中で、実在の人物や歴史にファンタジー要素を加えるなんてのはすぐに思い浮かぶアイデアである。
逆にシェイクスピアの戯曲なんかは民間信仰や古典のリメイクはあるが、決してモーセが出てきたりはしない。
肖像画ならまだしも実在の英雄を”書いてみた”になるのは、ロマン主義絵画のダヴィド以降である。
そこやアングルの絵画で初めて、光輪を”許された”ジャンヌ・ダルクが出てくることになる。
或はアーサー王などの”伝説”であり、責任が問われる特定の著者が存在しない。
そう考えると、時代考証だとか宗教上の理由だとかは、表現の幅を狭めることにしかならないのが分かる。
”ヒーローが集ったクロスオーバーだ”と考える広い心が必要だ。
この広い心を持つと、戦国BASARAシリーズはかなり許される。
まずそもそも、皆同じ時代にいないから。
関ヶ原の合戦では毛利元就100歳超えるし、武田信玄死んだとき真田幸村6歳やし。
この段階で、大体の戦国時代を扱った作品が矛盾する。
だからといって、ホンダムが出現したり、真田幸村がファイヤーしてたり、五本槍がいたりとかそんなことはある。
ここで出てくるのが、”Fate的時代考証”である。
召喚された時の姿は基本的に全盛期、記憶などは死亡するまでのもの、つまりどんな姿で現れてもいい。
そもそも女体化が許されるのは、『一騎当千』とかからすでに始まってるので、日本的には許される(八犬伝で言えば犬坂毛野は女として育てられている)。
どれに載ってたかは忘れたが、サーヴァントは召喚された時代や場所の知名度や文化に姿が左右されるので、物凄い恰好をしていても許されるとか。
つまり、2014年の日本というフィルターごしの姿として現れることになる。
この”2014年の日本というフィルター”がクロスオーバーにおいて重要である。
僕は昔翻案のレポートで、「作品には消費期限があるから、名作はリメイクされることで生きながらえる」と書いたことがある。
源氏物語を皆原典で読まず、その時代に合わせた訳で読んでも誰も文句言わないだろう。
それに原典がそんなに大事なら、ハリーポッターも原文で読めばいい、日本語訳なんて邪道なはずだ。
この考え方からすると、翻案作品において、オリジナルはそれほど重要な存在意義を持たない。
クロスオーバーものはそもそも二次創作であることが前提としてある。
他の作品から抽出するのだから、原典であるはずがない。
それプラス戦国時代は我々の予想を上回る文化があったことを忘れてはならない。
戦国ファッション展に代表されるように、戦国武将の具足はかなり派手且つ想像を超える。
それに現代というある程度のフィルターを合わせると、多少の大胆な脚色は可能性としてありえなくもない。
だからといって、人は空を飛ばんがね。
そもそも歴史自体語り継がれたものでタイムマシンでもない限り証拠はないんだから、何もかも決めつけるのはよくない。
「時代考証にあってない」というが、その信じている”時代考証”自体が正否怪しいんだから、根拠になっていない。
そう考えると、五本槍みたいなゴレンジャーはありっちゃありやと思う。
ということで、日本の翻案やクロスオーバーでは、他の国では考えられない料簡の広さがあることがなんとなくわかるだろう。
それは今も昔も変わらん。
だから別に武田信玄が女体化してレイプされようと、太宰治がイマジンブレイカー発動させようと、別にいいんじゃないのかね。
ただ、与謝野馨はまさか自分の祖母がキレキャラとして表象されるとは思いもよらなんだろうが。
だから『文豪ストレイドッグス』は別にありやと思うよ。
「文豪ストレイドッグス」がなかなか面白い。
まあしかしネットにある通りの批判というか、そういうものは文化的に受け入れるべきだ。
僕自身、読んで浅いなと思う部分があったし、なんかどっかで見た能力もあった。
太宰の能力はイマジンブレイカーだし、国木田の能力はクルルに似てるし、芥川の能力はBASARAの信長だし。
変身能力や空間投影とかは昔からよくあるし。
モンゴメリの能力は固有結界だし。
ていうか、Fateだと思った。
実在の英雄を特殊能力付きで現実世界に召喚する設定は全く同じだ。
前々から思っていたが、Fateはものすごく日本的な作品である。
そもそも狭義でのクロスオーバー自体がアジア的発想なのだ。
クロスオーバー作品はwikiにある通り、アメリカンによくある。
しかしそれはゲスト出演の域を超えない。
クロスオーバーすること自体、つまり初めから複数の作品の登場人物が一堂に会し、物語が進むことは実は少ないのだ。
『アベンジャーズ』などはだいぶ前からあるが、それも出版社の大人の事情の枠を出ない。
オールスターズという言い方もできるが、○○オールスターズであり、○○の枠はなかなか超えないということだ。
大人の事情なのだから当たり前である。
なぜ日本的、果てはアジア的なのか、の前に影響関係をさらっていこう。
wiki参照だが、
Fate(ゼロ年代)
→魔界転生(戦後)
→里見八犬伝(江戸)
→封神演義(明)
→・・・
の流れは確実である。
これらに共通していることがある。
全て史実を元にしたファンタジーなのだ。
そして全て時代考証が滅茶苦茶なことが批判されている。
さらに異文化の人物が集うのも共通している。
表にするのが面倒だから箇条書きにする。
・Fate…現代日本+アーサー王物語・時代考証は後で書く・宝具・イギリスVSメソポタミア
・魔界転生…17世紀前半日本の実在する英雄・忍ばない忍法・史実に合わせる気がない・仏教徒宝蔵院を転生させたキリシタン天草四郎
・八犬伝…15世紀半ば日本・玉梓の怨霊・里見義実の話が伝説・ごく普通に出家した金碗大輔
・封神演義…殷周易姓革命・仙人とか出まくり・殷時代に仏教はない・道教+仏教+民間信仰+インド
そもそも「封神演義は失敗作」という人のために『西遊記』を例に挙げると、
太宗も出てくる唐・どう見てもファンタジー・道教+仏教+民間信仰+インド
と、時代考証があまり突っ込まれないだけで、クロスオーバーしていることは同じ。
封神演義がそもそもクロスオーバーに含まれる原因がここにある。
実在の人物(紂王・武王)+道教(老子・元始天尊)+仏教(普賢真人・文殊天尊)+民間信仰(哪吒・楊戩)+インド(孔宣とか西方に連れていかれる奴ら)
こういった物語がアジア以外に生まれなかった最大の要因は何か。
答えは簡単、宗教である。
三大宗教のうち、多神教は仏教だけ。
そして同一民族による複数信仰もアジアだけ。
宗教でいえば、まず一神教では神や聖人を弄るなど許されない。
ヨーロッパ圏では英雄や諸王は聖人に列挙される習慣があるため、下手な英雄は弄れない。
ヨーロッパにもギリシャ神話や北欧神話など、多神教はある。
しかしそれらの歴史は常にキリスト教との戦いの中にあった。
ローマ神話大好きな時代のネロ皇帝みたいに、キリスト教は迫害される。
逆にキリスト教が優勢になるや、諸神話の神々は悪魔認定されてきた。
たとえばドイツにおけるフレイヤの扱いや、アスタロス扱いされるイシュタルやアフロディーテなどがあげられる。
今ですら、キリスト教は弄ることを許さない、BASARAではザビー教なのだ。
対して日本・中国はどうか。
日本は中国由来の仏教と日本古来の神道が同居し、キリスト教は危険視されて迫害されても、儒教は受け入れるという心の広さがある。
中国は仏教と道教が同居している。
多神教と一神教は長くなるので、『風土』を読みたもれ。
民族的に言えば要するに、自然を含む全てを支配するヨーロッパと、過酷な自然と渇水のせいで好戦的な性格になった砂漠イスラムと、過酷な自然と言っても水害や台風と同居し受け入れるアジアとの違いである。
そもそも受け入れる性格が違う、アジアが一番心が広い。
ということで、アジアには多神教と混在を許し、英雄を弄ることを許す文化があった。
英雄譚目茶目茶にするんやったら三国志演義とか、帝すら創作して許される源氏物語とか。
そういった中で、実在の人物や歴史にファンタジー要素を加えるなんてのはすぐに思い浮かぶアイデアである。
逆にシェイクスピアの戯曲なんかは民間信仰や古典のリメイクはあるが、決してモーセが出てきたりはしない。
肖像画ならまだしも実在の英雄を”書いてみた”になるのは、ロマン主義絵画のダヴィド以降である。
そこやアングルの絵画で初めて、光輪を”許された”ジャンヌ・ダルクが出てくることになる。
或はアーサー王などの”伝説”であり、責任が問われる特定の著者が存在しない。
そう考えると、時代考証だとか宗教上の理由だとかは、表現の幅を狭めることにしかならないのが分かる。
”ヒーローが集ったクロスオーバーだ”と考える広い心が必要だ。
この広い心を持つと、戦国BASARAシリーズはかなり許される。
まずそもそも、皆同じ時代にいないから。
関ヶ原の合戦では毛利元就100歳超えるし、武田信玄死んだとき真田幸村6歳やし。
この段階で、大体の戦国時代を扱った作品が矛盾する。
だからといって、ホンダムが出現したり、真田幸村がファイヤーしてたり、五本槍がいたりとかそんなことはある。
ここで出てくるのが、”Fate的時代考証”である。
召喚された時の姿は基本的に全盛期、記憶などは死亡するまでのもの、つまりどんな姿で現れてもいい。
そもそも女体化が許されるのは、『一騎当千』とかからすでに始まってるので、日本的には許される(八犬伝で言えば犬坂毛野は女として育てられている)。
どれに載ってたかは忘れたが、サーヴァントは召喚された時代や場所の知名度や文化に姿が左右されるので、物凄い恰好をしていても許されるとか。
つまり、2014年の日本というフィルターごしの姿として現れることになる。
この”2014年の日本というフィルター”がクロスオーバーにおいて重要である。
僕は昔翻案のレポートで、「作品には消費期限があるから、名作はリメイクされることで生きながらえる」と書いたことがある。
源氏物語を皆原典で読まず、その時代に合わせた訳で読んでも誰も文句言わないだろう。
それに原典がそんなに大事なら、ハリーポッターも原文で読めばいい、日本語訳なんて邪道なはずだ。
この考え方からすると、翻案作品において、オリジナルはそれほど重要な存在意義を持たない。
クロスオーバーものはそもそも二次創作であることが前提としてある。
他の作品から抽出するのだから、原典であるはずがない。
それプラス戦国時代は我々の予想を上回る文化があったことを忘れてはならない。
戦国ファッション展に代表されるように、戦国武将の具足はかなり派手且つ想像を超える。
それに現代というある程度のフィルターを合わせると、多少の大胆な脚色は可能性としてありえなくもない。
だからといって、人は空を飛ばんがね。
そもそも歴史自体語り継がれたものでタイムマシンでもない限り証拠はないんだから、何もかも決めつけるのはよくない。
「時代考証にあってない」というが、その信じている”時代考証”自体が正否怪しいんだから、根拠になっていない。
そう考えると、五本槍みたいなゴレンジャーはありっちゃありやと思う。
ということで、日本の翻案やクロスオーバーでは、他の国では考えられない料簡の広さがあることがなんとなくわかるだろう。
それは今も昔も変わらん。
だから別に武田信玄が女体化してレイプされようと、太宰治がイマジンブレイカー発動させようと、別にいいんじゃないのかね。
ただ、与謝野馨はまさか自分の祖母がキレキャラとして表象されるとは思いもよらなんだろうが。
だから『文豪ストレイドッグス』は別にありやと思うよ。